風の王国

五木寛之風の王国』(新潮文庫)。「サンカ」について書かれた小説だというので読んでみた。力作。作者はあとがきで「この小説は、作者の見聞と想像にもとづく創作であり、実際のいかなる団体や人物とも関係がありません」と書いていて、いわゆる「サンカ」の実像とどれだか重なるかはわからないが、この小説は少なくとも「サンカ」の実像に迫ろうと試みた作品ではない。「自由な民」に対する熱い思いを綴った本なのだ。

(冒頭に掲げられた文句)
一畝不耕 一所不在
一生無籍 一心無私

(フタカミ講の講主の言葉)
「ー山に生き山に死ぬる人びとあり。これ山民あり。里に行き里に死ぬる人びとあり。これ常民なり。山をおりて、里にすまず、里に生きて、山を忘れず、山と里のあわいに流れ、旅に生まれ旅に死ぬるものあり。これ一所不在、一畝不耕の浪民なり。
 山民は骨なり。常民は肉なり。山と里の間を流れる浪民は、血なり、血液なり。血液なき社会は、生ける社会にあらず。浪民は社会の血流なり。生存の証なり。浪民をみずからのうちに認めざる社会は、停滞し枯死す。われらは永遠の浪民として社会を放浪し、世に活力と生命とを与えるものなり。乞行の意義、またここに存す。乞行の遍路、世にいれられざるときには、自然の加工採取物をもって常民の志をうく。これ《セケンシ》の始めなり。山は彼岸なり。里は此岸なり。この二つの世の皮膜を流れ生きるもの、これ《セケンシ》の道なり。われらは統治せず。統治されず。一片の赤心、これを同朋に捧ぐ。されど人の世、歴史の流れのなかにー」

ス、スバラシイ!

主人公・速見卓の問い、「でも、もし、勝つか、負けるかの、二つのどちらかの道しかないような時にはー」に対して、二代目講主である天浪は「道は必ずあるものだ」と答える。それでもなお、二者択一を迫られる状況になった時は? 次期講主である哀は「負けます」ときっぱり答える。我が意を得たりとばかりに天浪が言うには、「勝つか、負けるか、それをぎりぎりの地点で迫られたときは、負けるがよい。負けて、無一物の姿となり、世間の陰を流れて歩くがよい。それが《ケンシ》の道だ。負けるはいや、勝つもいや、それでは世間には生きられぬ。だから世間を離れ一所不在の道をゆくのだ。負ける心、捨てる心、別れる心、それが《ケンシ》の心だとわたしは悟った。哀、よく言ってくれた。この世のすべては、亡ぶときは亡ぶ。山も、海も、川もそうだ。わたしは冥道さんは間違っていると思う。だが彼と争って勝とうとは思わぬ。ただし、手をつかねて負けるのも困る。だから力を尽くしてやれる事はやろう。しかし、どうにもならぬ時は、負けるのだ。負けて、すべてを捨てるのだ。講も捨ててよい。一族の未来も捨ててよい。遍浪先生の思い出も、山も、川も、すべてを捨ててもよい。人間として生きることさえもだ。われらは非常の民である。非常民の魂には非常識こそふさわしい」


これまで五木寛之の本は読んだことがなかった。この小説は完全無欠なわけではない。それでも一気にファンになってしまった。その心意気に素直に胸を打たれた。