本ニ冊

伊藤正孝『アフリカ ふたつの革命』(朝日選書 1983年)
エリトリアエチオピアのひとつの州ですが、黒人が黒人を支配するという、アフリカでも異例の植民地主義が維持されています。エチオピアとゲリラの戦争は一九六一年に始まり、以後二十四年間つづいております。七八年から八一年にかけてエリトリアで展開された大小の戦闘は、同時期の世界各地の戦闘とは比較にならないほどおびただしい死傷者を生みました。ソ連の軍事介入が戦争を激化させております。」
エリトリアは古代エチオピア帝国の一部でした。しかしエチオピアの中央政権が弱体であったために、エリトリアに侵入してくる外国製力を防ぐことができなかった。エリトリアは少なくとも四世紀にわたってエチオピアの支配から離れていました。第二次大戦後、国連信託統治を経てエリトリアは独立しました。しかし住民の意思に背いてエチオピアに併合されます。エリトリアを併合したハイレ・セラシエ皇帝は一九七四年の軍事クーデターで打倒されました。その後には社会主義エチオピアが誕生したのですが、新政権もまた皇帝の領土拡張政策をそのまま受け継ぎ、今日に至っております。」
などと引用していたら、まるまる一冊引き写さざるを得なくなる。あまり知られることのない、たいした情報も入ってこない、関連書も非常に乏しい、日本にとってはかなり縁の薄い、「アフリカの角エリトリアエチオピアで遂行されている(この本の発表時には)それぞれの革命、および相互の戦いについて描いた渾身のルポルタージュ
あの奇妙キテレツな音楽を生み出したエチオピア、およびエリトリアとはどんなところぞ? といった興味から手にしたが、そのあたりはまったくわかりません。百九十二ページに、エチオピアの大みそかに出くわしたときのことが書いてあるきりだ。「弦楽器中心の楽団が、日本の八木節とかチャッキリ節に似たメロディーを、哀愁をこめて演奏する。日本の民謡は、この国から来たのではないかと思えるくらい似ている。」
エチオピアと日本の共通点は? エチオピアは地主小作制が発達し、長年の搾取にさらされた小作人たちには忍従の精神が染みついている。日本の農民も優しく扱われているとは言えないだろう。エチオピアもお辞儀の習慣がある。日本には天皇が、エチオピアには皇帝がある(あった)が、エチオピアの皇帝は「諸王の中の王」がなるものであり、万世一系ではない。そこのところが大きく違う。


川上洋一『クルド人 もうひとつの中東問題』(集英社新書 2002年)
「祖国なき最大の民といわれるクルド人。居住地域はクルディスタンと呼ばれ、おもにトルコ、イラン、イラクにまたがり、面積はフランス一国にも匹敵する。さらにその人口は二五〇〇万人とも推定され、パレスチナ人約八〇〇万を大きくしのぐ。」
「千のため息、千の涙、千の反乱、千の希望」
「世界的な注目を集める度合いが低かったのは、あるいは激しい闘争に比較して十分な成果が得られたかどうか疑問があるのには、多くの理由がある。/主な居住地が内陸部のさんが朽ちたいやその近くにあり、外部との人的交流や情報の交換に限界があり、実情が外部に伝わりにくかった。同じ理由で開化に遅れがあり、経済力も低かった。どの国の政府も、クルド人の動きが国内外に知られないように腐心してきたせいもある。/その要因を大別すると、第一に、クルド人のレベルでは、€二〇世紀半ばを過ぎるまで、部族が細かく分かれ、一つの民族としの意識の集約が困難だった。 リーダーでさえも、民族の大同団結をはかるというよりは、部族間の主導権争いの性格が強かった。¡それゆえに、運動に統一組織ができにくく、組織はできても部族意識の延長の側面が強かった。¤部族意識が薄れてからも、クルド人同士で絶えず反目、抗争を続けた。¦おもな居住地が三国にまたがっているため団結できなかった。©中央政府との駆け引き、交渉が拙劣、政治判断が未熟で、妥協の時機をとらえられなかった。ªやむをえぬこととはいえ、運動が常に外国に依存しすぎた。/クルド内部の対立を細かく見ると、世俗主義イスラム主義、クルマンジー語対スラニ語、トルコではイスラム教アレビ派対スンニ派
「第二に、クルド人の住む国の中央政府レベルでは、€国家統一と領土保全のために、正規軍による苛烈な弾圧を繰り返した、 クルド側の事情で、分断、翻弄が容易であった、¡隣国の政情撹乱を狙って、隣国のクルド人に対しては、そのときどきの自国の利害に応じて支援をした、¤一方で、各国の政府は、自国内クルド人自治要求には応じないとの点で連携して、一致した姿勢をとった。」
「第三に、大国のレベルでは、大国は自身の利害に従って、クルドを常に恣意的にご都合主義で扱った。ある国のクルド人に対してあるときは支援、別のときは弾圧、またあるときは無視した。特に大国自身が関わる歴史の節目節目に、決定的な役割を演じた。第一次大戦、第二次大戦、湾岸戦争の後が、その典型である。」
同じクルド人でありながら、異なる組織や部族間で対立、抗争、虐殺を繰り返し、イラクではフセインによって毒ガスをまかれ、村を破壊され、難民化し、トルコではクルド語を話すこともクルド人であると自称することも禁じられている。クルド人が今なお置かれている苦境は想像するのも難しい。