おれ にんげんたち

岡本武司『おれ にんげんたち(副題:デルスー・ウザラーはどこに)』(ナカニシヤ出版)。
朝日新聞社を定年まで勤めあげたのち、ハバロフスクの大学で日本語講師を勤めながらロシア語を勉強し、その後ウラジボストクの大学へ留学して、ロシア語を勉強しながら沿海州の先住民を研究していたという筆者の「遺作」。病に倒れ急逝し、遺された原稿をかつての同僚が本にした。

映画『デルス・ウザーラ』は、(どうやら体調のせいもあって)いささか黒澤明らしくなかったが、それでも黒澤明の全監督作から一作しか選べないとなったら、この映画を選ぶだろう、ぼくは。

黒澤明の『デルス・ウザーラ』を観ながら、「でも本当はこんなんじゃないんだもんね」「原作はもっと心にしみるもんね」なんてことを思っていた。映画の枠におさめる以上、エピソードを整理し、事実のわい曲もやむを得ないと思っていた。

しかし、その原作である『デルスー・ウザーラ』も純然たるノンフィクションではなく、アルセニエフの創作が加わっていることをなにかで読んだ。

この『おれ にんげんたち』は、「物語のデルスー」と「記録のデルスー」を比較対照していて、非常に興味深くおもしろく読める。現代に生きる「デルスー的な人」を参照している章では筆者のデルスーに寄せる熱い思いが伝わる。
未完成の本であることは、たとえばアルセニエフ書でデルスーがしゃべっているロシア語がアルセニエフの創作ではないかと疑って、デルスーが話していたであろうナナイ語のビキン方言を検討している箇所に伺える。デルスーが実際には言っていないであろう言葉、最初に登場したときに発したロシア語、「マヤ リューヂ」=「おれ にんげんたち」を、デルスーの本質を表すような言葉として引用するという素っ頓狂なことを仕出かしているのだ。デルスーが実際に発していないにも関わらず、アルセニエフがあえてその言葉を用い、そのアルセニエフの思いに答える形で、筆者がその言葉をデルスーのものとして引用するといった順序立てがないため、非常に唐突に見えてしまう。推敲の跡がないと見える。「その後」と称して、アルセニエフや家族のその後の消息を追っているが、突っ込み不足な観があるし、おかげで本全体の印象がばらけてしまった。

とは言え、デルスーにふたたび出会えたことがたまらなくうれしい一緒であることに変わりはない。