「アレクセイと泉」「ナージャの村」

遠い世界の話と感じさせないのは、景色にむしろ懐かしさを覚えるからだ。極端に多くはない積雪量、葉の落ちた木々、家屋の年経た木の色に。ブジシチェ村の泉に立つ手作りの十字架には、布が飾りつけられ、雪を防ぐための屋根があるが、それも着付けをされた地蔵を思わせるのだ。
健気に生きている老人たち。とは言え、二つの村に「将来」がないのは明らかであり、残った住民がいかに今の生活を大事にし、楽しんでいたとしても拭いきれない事実だ。どうしてもそこのところが寂しくてならない。
ブジシチェ村に一人だけ残った若者であるアレクセイの存在は、放射能の検出されない泉と同じくらいの奇跡に思える。
第一作である「ナージャの村」は、タイトル上はナージャが前面に出ているが、内容は必ずしもそうではない。家族の名前も断片的に紹介されるだけで、ナージャの家族に焦点を当てたものではない。六世帯が残っているとナレーションしながら、正確には五世帯のことにしか触れず、均等に焦点を当てているわけでない。作りの上でやや難があると感じるが、それはスタイルの上でより洗練された第二作「アレクセイと泉」を先に見たせいだろうか。(ポレポレ東中野の上映スケジュールはおかしい。チェルノブイリ二作目『アレクセイと泉』を先に上映し、続けて二作の続編とも言える二十分のドキュメンタリー「ナージャ・アレクセイの今」を上映し、中断をおいて(別料金で)一作目『ナージャの村」そしてふたたび『ナージャ・アレクセイの今」を上映する。二作続けて観る観客がいるとは考えないのだろうか?)