atシアター・イメージ・フォーラム『いのちの食べかた』(ニコラウス・ゲイハルター監督/2005年/オーストリア・ドイツ)

初回11時のところを10時20分に映画館に着いたら既に50人ほど並んでいて、うわっ人気があるなあ、とひるんだら、ほとんどが若い女子。アレ? と思い開場後、地下に降りていったら客は四・五名のガラガラ。あの人たちは何を見に来てたのか? 「はじらい」? 肝心の『いのちの食べかた』だが、邦題に難があるのでは。「いのち」と書いて普通連想するのは動物だ。その中でも哺乳類、鳥類、ちょっと下がって魚類、ハ虫類、さらにさがって昆虫か。植物も「いのち」であると言えなくもないが、ややこじつけがましくなる。このフィルムはおそらく、高速のベルトコンベアーで運ばれる大量のヒヨコ、広大な室内にあふれかえる何万羽ものニワトリ、流れ作業で淡々と進められる屠殺、巨大なカッターで裂かれた腹からあふれ出る内臓、額を棒状の銃で撃ち抜かれて崩れ落ちる牛などのショッキングなシーンが印象に残りやすいだろうが、それと同程度の比重でピーマン、トマト、レタスが工場的な流れ作業で収穫されるさまを描いているのだ。推薦者の一人である森達也にはこのドキュメンタリーとは別個に『いのちの食べかた』と題された著作があり、今回の邦題はそれに便乗した形でつけられたのだろうか? これは労働の喜びをとらえたフィルムではない。命の尊さを訴えるフィルムでもないし、食べることの喜びを描いたフィルムでもない。誰もかれもが実につまらなそうな顔をしている。収穫の喜びはここにはない。獲物を仕留めたときの喜びもない。命に対する畏怖もない。自身の生のために奪われる命に対する感謝もない。大量消費社会に見合った、退屈な大量生産の現場があるだけだ。命が機械的に処理されているだけではなくて、そこで働いている人間たちも機械の中にガッシリ組みこまれている。殺される命と殺す命はここでは等価になっているのだ。